因縁の中で暮らしている。まぁしかし、それでくよくよしてしまうわけではない。ただ来し方行く末はつい気が付くと考えている。

去年、友だちと竹林の中にいて、「わたし、竹って大好きだな」と言うと、彼女は「あなたは竹を割ったような性格だもんね」と答えた。そう言われたらうれしいよりも(自分よがりな短絡思考をそう指されたか?)と恥ずかしかった。でも生き方を測られるような問題が次々起きてみると、やっぱりわたしは竹を割ったような性格をしているんだなぁとわかる。彼女に他意はなかったんだ。

数年前、この日記で「ゆがみやねじれの中で暮らしている」と嘆いた時期があった。今でもその全てから逃れたわけではなく、それは生きているみんながみんな同じで、大なり小なりの軋轢に耐えてなんとかやっているものだ。自分が「張りつめきった」と感じた問題が弾けた後、その破片を拾う作業、失ったピースを数えて絶望する作業、足りないものを補って生きていく作業は、頭の中だけで行う仕事ではなくて、汗や涙を伴う事物も多く、振り返れば「ああ」と納得できることもあるけれど、行動のさなかにあってはとにかくしんどい。今だって決して楽ではないけれど。

お支度ができました、なのだろうか。

親方の人生に、心に、ぐーっと踏み込む毎日です。


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